黒田 そもそも社会教育行政に携わるきっかけは何だったのですか?
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森本 |
中学校の教師になって1年くらいたったころ、誘われて穂波町の子ども会指導者のグループに入りました。そこでの活動を通じて「地域の教育力」に大変興味や関心が高まり、社会教育が学校教育に大いに役立つことを実感したことが、社会教育に入るきっかけになったと思います。 |
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森本 精造氏
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黒田 社会教育の仕事の楽しさや辛さはどのようなところにあると思いますか? |
森本
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学校教育も本来そうあるべきだと思っていますが、社会教育の楽しさは何といっても豊かで多様な発想や方法が可能だということでしょう。また、幅広い人間関係が基本になっているということも楽しさの要因でしょう。
辛さということでは、社会教育は常に選ばれる立場にあるということです。それだけに事業実施においてすぐに結果が出ます。辛さというより厳しさをいつも感じていました。 |
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黒田 在職中で、特に記憶に残る出来事はどのようなことでしたか?
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森本
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昭和55(1980)年に、県下8,000人の「小学生を持つ父親・母親の養育態度・行動に関する家庭教育実態調査」に携わったことが、私の教育論に大きな影響を与えたと思っています。調査結果からは「過保護・放任」の子育て実態が明らかになったのですが、このことがその後の私の教育を考えるモノサシになりました。
また、仕事上での新たな人との出会いが、私の生き方に大きな影響を与えてもらったと、振り返って感謝しています。 |
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黒田 |
当初、社会教育行政に携わられたころと今では、随分社会教育行政の在り様が変わったと推量しますが、どのように変わりましたか? |
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森本 |
私が社会教育行政に関わったころは、社会教育の対象は社会教育関係団体の御三家、地域青年団、婦人会、子ども会が中心でした。すなわち地域共同体がしっかりしていて、地域や家庭の教育力がまだまだ残っていたころでした。その後急激な社会の変化の中であっという間に地域共同体機能が衰退し、地域を基盤にしていた社会教育の母体が壊れ始め、新たな社会教育のあり方が問われだしました。生涯教育の考え方がわが国に導入された昭和46(1971)年ころがその大きな分かれ目だったと思います。生涯学習社会の構築という考え方は、社会教育行政を一変させたと思います。
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黒田 |
あらためて、変化の節目はどのようなところにあったと思いますか? |
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黒田 |
森本 |
地域共同体がしっかりしていた農村型社会から、豊かで便利になった都市型社会への変化が大きな節目だと思っています。前述の昭和46年ころがターニングポイントだと考えています。
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黒田 |
今後、社会教育行政はどのように変わるべきだと思いますか? |
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森本
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教育委員会の中での社会教育の位置づけが危うくなってきています。社会教育の対象・領域の幅広さや生涯学習社会を迎えての首長部局事業・施策との重複等がその要因と考えています。また行政の財政事情の厳しさが続き、行政改革やむなしの現状では、義務的事業や政策に乏しい社会教育がターゲットになることもやむを得ない状況かもしれません。それだけに社会教育行政を改めて教育の視点から見直し、特に学校教育との連携を進め、学校教育に必要な社会教育の在り方を検討すべきだと考えます。
また、少子高齢社会を迎えた今、高齢者と子どもたちとの交流を進めることも、教育の視点から重要な社会教育の課題だと考えています。 |
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黒田 |
社会教育に長年携わってきて、「自分自身も変わった」と思いますか? |
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森本 |
市町の教育行政の責任者になって、学校教育に9割の業務量を割かれてきた中でも、社会教育の視点から学校教育に関わることを心がけ、「学社連携」施策に取り組めたことを誇りとしています。社会教育を学校教育との関わりの中で、その存在と成果をアピールできるようになったことは、「自分自身の変化」だと思っています。 |
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黒田 |
最後になりましたが、これから先のライフワークを何か考えてありますか? |
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森本 |
今年の5月16日で46年にわたる公務員生活に終止符を打ちました。その職歴は、学校教育5.5年、社会教育約30年、教育行政9年半の長きにわたって教育に関わってきたことになりますが、私自身は社会教育を中心に据えて仕事を進めてきたと思っています。とくに最終の教育行政の9年半は、旧穂波町と合併後の飯塚市の教育委員会教育長という教育行政の責任あるポストでした。ここではその前の30年間の社会教育の経験が生かせたと思っています。「学社連携」がキーワードでした。今後は民間人として「学社連携」を柱とする事業に取り組めればと思い、NPOの立ち上げなどを考えています。
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