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【由来等】 京築地方に伝わる神楽は、天台宗修験道の影響の湯立や、豊前修験道の松会行事である幣切りが神楽の演目として取り入れられている。大富神社では江戸時代以前から神楽が奉納されていることが伝えられている。また江戸時代に入ると祭礼などの際に社家により奉納されていたことが文献資料によって明らかになっている。大村神楽講が伝承している祝詞によると、湯立は熱湯を浴びたり、火を踏んだりして身の潔白を証明した、古代の神聖裁判に因っているくだりがある。豊前神楽を伝承した神楽講の一つの大村神楽講は、1677(明治10)年頃大富神社の清原宮司が氏子たちに伝えられ成立したといわれている。なお、大富神社には、次のような神楽に関する文献資料がある。「1719(享保4年)岩戸神楽帳、1750(寛延3)年山田宮宝剣治国神楽諸銘記、1791(寛政3年)宝剣治国神楽番組、(年次不詳)宝剣治国神楽由来、(年次不詳)神楽解説、(年次不詳)神楽秘伝書」。
【活動の歴史】 豊前市の岩戸神楽・2000豊前市教育委員会によると、第二次大戦前には明治神宮や伊勢神宮、朝鮮半島各地の神社で神楽を奉納したといわれている。第二次大戦中は徴兵や徴用などにより講員が減ったものの、奉納は可能な限り続けられ、世情が安定した昭和30年頃から再び興隆に向かった。現在では青年の都会流出のため後継者不足に対し、地元では子供神楽などを通じて神楽を教えている。
【芸能を行う理由・目的】 五穀豊穣(新嘗祭、収穫感謝)、太陽復活(鎮魂)儀礼、無病息災、各種繁栄祈願
【舞・踊りの特徴】 湯立神楽は豊前神楽最大の神楽である。神社の広場に設けられた斎湯(ゆにわ)の中央に湯鉾(ゆほこ)とよばれる柱がたてられ、湯釜が設営されている。駈仙(みさき、猿田彦)は湯鉾、湯立釜をたて広場を駆け回り、高さ約10mの湯鉾に登り御幣を投げる。その後、駈仙は湯鉾の上で逆さになるなどし、湯鉾を支える綱をつたわって降りてくる。
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| | | | | 民俗芸能では私たちが普段見ることのない道具や興味深い言い伝えなどがたくさんあります。 |
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