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【由来等】 1825(文政8)年6月5日の夜、時の小笠原藩主小笠原忠固が参勤交代の途中、宇島の築港工事を視察するため宇島沖合にさしかかったが、暴風雨のため入港できなかった。そこで蓬莱町(宝来町)の漁師たちが10艘の舟を出して、小笠原公の乗る「天祥丸」を港まで曳航し、無事上陸させた。更に小笠原公が江戸に向かう際も沖合まで送った。小笠原公はこの褒賞として黄金と酒樽、天祥丸のお墨付きと三階菱の紋を許可した。これを機に、翌年1826(文政9)年より、毎年6月6〜7日の両日、祇園祭を執り行うことになった。
【活動の歴史】 1821(文政4)から始まった宇島築港工事を受け、1820〜1828(文政3〜8)年の間、それまで民家が一軒もなかった宇島に移住者が急増した。以来、各町単位で祇園車を製作し今日に至っている。多い時では祇園車は12基出たというが、現在では6町6基の祇園車が出、総代会と文政会という組織の下に毎年行われている。祭りの由来にちなみ、宝来町(蓬莱町)の祇園車は天祥丸という船を乗せた御船車であり、子供たちがその祇園車上で船歌を唄う。
【芸能を行う理由・目的】 宇島築港に尽力した当時の郡代の杉生十右衛門の慰霊、宇島各町の繁栄祈願
【舞・踊りの特徴】 なし。
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| | | | | 民俗芸能では私たちが普段見ることのない道具や興味深い言い伝えなどがたくさんあります。 |
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