今津の松囃子
【いまづのまつばやし】

今津の松囃子
【開催場所】
福岡市 四所神社、今津の岡町(上町、東町、寺小路)、本町、登志神社
【開催日】
成人の日
【指定】
指定なし
【アクセス】
昭和バス「今津」からすぐ

【由来等】
 伝承によると、かつて正月の1月11日に、朝鮮から日本の朝廷に祝いの品を届けていたという。その品は一旦、対外貿易港であった今津に陸揚げされ、大宰府政庁の係官により確認検収された。10日の晩は登志神社に護衛つきで保管され、翌11日、大宰府政庁に輸送する前に、山車に貢ぎ物を載せて今津中を曳き回し、披露していたのが由来とされている。古老によると、山車に載せ、曳き回すした品は、朝鮮からの祝いの品、日宋貿易関連、元寇の捕獲品説(蒙古の使者が今津に入港した事実があり、文永の役では元軍の上陸地点であった)、秀吉による朝鮮出兵時の捕獲品説など、諸説があるという。

【活動の歴史】
 貢ぎ物を曳き回すしきたりがなくなった後も、時代の移り変わりにより、貢ぎ物に見立てた張り子の人形や短冊を山車に載せて各町内を曳き回した。きらびやかな山車を曳き回すだけだったものが、いつの時代から、神輿や「通りもん」が加わり、神事と結びついたかは不明である。かつては、現在祭りを行う四町内から、それぞれ幾人かの弓上手を選び、矢の成績の良い町から、山車を曳き回す順番を決めていたと伝えられ、その名残が、山車の曳き歌にある。担当町内の全ての家を回る神輿は、以前は1日かけて回ったこともある。(「今津千軒七不思議」と言われたほどかつては人口の多い町だった。)第二次大戦中の山車は、肉弾三勇士、神武天皇やルーズベルトなど、時局に応じた物を飾っていた。人形は本町を除いて手作りであったが、戦後の昭和24年頃からずっと、博多の人形師が担当。昭和30年代半ば、2年ほど、人形に費用がかかりすぎると言う理由で山車のみ中断した。かつては山車に「通りもん(ドンタク隊)」が連なり仮装した人がそれぞれの芸を披露しながら練り歩いていた。午後になると別行動をとって、やはり芸を披露しながら家々を回っていた。

【芸能を行う理由・目的】
 豊作豊漁

【舞・踊りの特徴】
 子供たちは、山車の曳き歌を唄いながら曳き回し、順路の所定の場所に停車する。その度に、所属の町に関係なく、その近所の家庭を回り、饗応を受ける。先行している神輿は、各町内の、短冊が飾られた家を全て回る。その際、先頭に、「お潮井てぼ」を立て、家に入ると「お潮井てぼ」から砂を一掴み掬い、玄関に供える。神輿は後戻り出来ず、そのための順路が設定されている。本年の座元を起点に、昨年の座元が最後となるような道筋をとる。「通りもん」の名残として、祭の最後に、赤い半纏にひょっとこの面を着け、鐘を鳴らして踊りながら各家を回る2人組が、登場する。
民俗芸能では私たちが普段見ることのない道具や興味深い言い伝えなどがたくさんあります。



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このホームページの情報は、2002年11月から2004年3月の間に行った取材を元に掲載しています。
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