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【由来等】 江戸時代中期、今の吉井町を拠点とする星野氏とキリシタン大名大友宗麟が戦火を交えており、大友系の問註所氏の領地であった若宮一帯の神社は焼き討ちにあっていた。そのため、一時御神体を浮羽郡溝尻に移したが、その後、寛文年間(1661〜1673)の半ばに若宮八幡宮に戻したことが御神幸行列の始まりといわれている。昔は武者行列、神馬の御伴があり、溝尻の代表が来なければ始まらず、太鼓、笛、鐘をついた館車を列の前部にお伴していた。
【活動の歴史】 大正時代中期までは流鏑馬が奉納され、行列には武者、御幣を背中に乗せた馬、笛、太鼓の囃子が付いていたようである。また、大正時代末期までは溝尻地区の人が太鼓、笛を演奏して行列の最初を歩いていたという。第二次大戦前までは、二十歳になり兵隊検査に合格した若者が白の上衣を着て神輿を担いでいた。今の形態になったのは昭和に入ってからのことである。戦争中は行列は中断されていた。
【芸能を行う理由・目的】 五穀豊穣、吉井町の幸福、幼児の健康・幸福祈願
【舞・踊りの特徴】 毛槍は、筑後の小江八幡宮に奉納されていた小江流という勇壮なもので、掛け声と共に、独特な所作を行う。掛け声は、役により異なる。赤鬼「お箱あげましょう」、箱「サー、ヨーイヤセー」は祭りの最初のみ。道中は、棒「ヨイヤ、マーカーセー」、全員「ヨイサー、サー、サー」「ロクサー、サー、サー」「ハー、コレハサー」、箱「サー、ヨーイヤセー」、棒「ヨイヤ、マーカーセー」を3〜5回繰り返す。毛舞振りは、小江流のほかに朝倉志波の政所(まんどころ)流が伝わる。
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| | | | | 民俗芸能では私たちが普段見ることのない道具や興味深い言い伝えなどがたくさんあります。 |
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