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【由来等】 「幸若系図」によると、幸若舞の初祖は桃井播磨守直詮となっている。幼名の頃より歌舞音曲にすぐれた才があり、草子に節をつけてうたったのが評判となり、人々が幸若舞と呼ぶようになったという。中世から近世にかけて能と並んで武家達に愛好された。弟子の山本四郎左衛門が大頭舞という一流を開き、その孫弟子の大沢次助幸次が、1582(天正10)年に筑後国上妻郡山下の城主蒲池鑑運に招かれて九州に渡り、家臣達にこの舞を教えた。その後、下妻郡溝口村に住んだ田中直種によって受け継がれていった。直種は、大沢次助から伝授された大頭流をさらに吟味し、四十二番の節調子に磨きをかけて人々に教えた。こうして筑後農村部に入った大頭流は、様々な舞方の手を通じて、1787(天明7)年に大江村在住の松尾増墺に伝えられた。その後も代々大江村に伝授され続け現在に至る。
【活動の歴史】 明治維新後、各地の幸若舞は後を絶ったが、大江に残った大頭流の幸若舞のみがその芸統を守ってきた。現在では、1月20日の公演以外にも、年に2〜3回ほど全国各地の民俗芸能祭などに出演している。昭和61年8月全国こども民俗芸能大会(奈良県)、平成3年11月鎌倉鶴ケ岡八幡宮800年祭、平成6年9月高天神歴史探訪(戦国高天神に舞う)(静岡県)、平成7年10月国民文化祭とちぎ95奈須与一フェスティバルなど。また、幸若舞の発祥地である福井県朝日町とも交流があり、隔年で出向いて舞っている。
【芸能を行う理由・目的】 五穀豊穣
【舞・踊りの特徴】 舞の内容が軍記物であるため、厳格律気で、詞と舞は朴直誠実である。 太夫(朗吟の演技の主役)、シテ(副役)、ワキ(副役)が物語を朗吟する。動きは少なく、物語りを語ることに主体がある。主たる曲節は、舞方1名が節をつけずに物語る「コトバ」、太夫1名が次節へ調子を変える場合に語る「カカリ」、太夫1名が朗吟し、音の変化が最も大きく難しいとされる「イロ」、舞方3名が合唱しながら横一列に進退を繰り返す「フシ」、太夫が朗吟しながら歩行体で舞台を鼓形に動く「ツメ」などに分けられる。鼓方が掛声で朗吟の調子をとり、鼓で歩みの長短を決める。「カカリ」「イロ」は掛声が、「フシ」「ツメ」は掛声と鼓が入る。
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| | | | | 民俗芸能では私たちが普段見ることのない道具や興味深い言い伝えなどがたくさんあります。 |
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