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【由来等】 寒田神楽の由来は定かでないが、1665(寛文5)年、地元山霊神社の火災の際に神職の岡田平治が火災を鎮めるために、鎮火祭文を唱えて神楽を舞い、2年間かけて再建し、寛文7年9月に神迎神楽を奉納し、遷宮を行った。それ以来、山霊神社奉楽士として、秋の鎮火祭で湯立神楽が奉納されるようになったと伝えられる。
【活動の歴史】 京築地区の神楽は、明治以前は神職以外では舞うことは許されない社家神楽(神職神楽)であった。明治の神職世襲制度の廃止に伴い、社家神楽が禁止され、明治中期に旧築城郡伝法寺村岩戸見神社の宮司熊谷房重が、氏子に直伝したと伝えられている。それ以来一度も途絶える事なく奉納されている。舞方、囃子方共に、「山霊神社奉楽定」に基づき世襲制により受け継がれてきた。昭和43年に氏子であれば誰でも舞えるように改められ、同時に宮柱、宮司を中心に神楽講も発足した。京築地区の神楽講、保存会などのブロック代表になって、他の県で上演したり、京築地区の祭りに参加するなどの依頼も多い。寒田地区は築城町内の他の地区と異なり、1地区1神楽1小学校となっているため、築城町役場の尽力により寒田小学校全校児童全員に対して神楽を授業の一貫として教えている。子供神楽としての奉納は現在行われていないが、学校内の行事(文化祭、卒業式など)で舞っている。将来は子供神楽の奉納も考えられている。本神楽は男性のみで舞うが、子供神楽は男女共舞う事が可能で現在10名が参加している。
【芸能を行う理由・目的】 五穀豊穣、家内安全、寿命長久(湯立神楽)
【舞・踊りの特徴】 寒田神楽の大部分は出雲神楽の系統に属する神楽である。湯立神楽は舞庭に、上部を幣で飾った約10mの孟宗竹を立て、33把の薪木を燃やして湯をたぎらせ、その湯を振って祓い清め、猿田彦神が探湯(くがたち)をする。祝詞奏上で火を鎮め、3名が火床の上を渡る。その後、「湯鉾」によじ登り、「湯鉾」の上に取り付けた御幣を切り落とし、逆様になって滑り下る。これを「幣切り」といい、御神霊の降臨を意味するという。湯立神楽は伊勢系神楽の系統に属する神楽とされるが、「竹に登る」、「弊切り」などの演目があるところから、修験道の影響を大きく受けていると思われる。
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| | | | | 民俗芸能では私たちが普段見ることのない道具や興味深い言い伝えなどがたくさんあります。 |
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